人はボケたら、第二言語を失うのか

目次
1. 人はボケたら、第二言語を失うのか
2. 認知症になると、第2言語は失われるのか
3. 言葉は、フォルダのように保存されていない
4. 生活の言葉は、最後の回線になるかもしれない
5. 継承語は、未来を守るもの
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人はボケたら、第二言語を失うのか
国際結婚をして海外に住んでいる知人が、こんなことを言っていました。
「子どもが日本語をほとんど話せないんだよね。今は英語で会話できるから困らない。でも、もし自分が年を取って、認知症になって、英語が出てこなくなったらどうしよう。娘と話せなくなるのかなって思う。」
その言葉を聞いたとき、これは単なる語学教育の話ではないのだと思いました。
子どもに日本語を覚えてほしい。
でもそれは、漢字が書けるようになってほしいとか、日本文化を知ってほしいとか、そういう話だけではありません。
その奥にあるのは、
「将来の自分が、最後に残る言葉で、子どもとつながれるのか」
という不安なのだと思います。
認知症になると、第2言語は失われるのか
認知症になると、第2言語は必ず失われるのでしょうか。
母語だけが最後に残るのでしょうか。
答えは、そんなに単純ではありません。
認知症は、記憶だけでなく、言葉、判断、理解、会話の処理などにも影響を与えることがあります。
言葉が出にくくなる。
会話の流れを追いかけるのが難しくなる。
知っているはずの単語を思い出せなくなる。
相手の話を理解するのに時間がかかる。
そういった変化が起こることがあります。
バイリンガルや多言語話者の場合、そこに「どの言語が残りやすいのか」という問題が重なります。
研究では、認知症の進行にともなって、あとから学んだ言語よりも、最初に身につけた言語に戻るようなケースが報告されています。
特に、あとから学んだ言語、日常的に使う機会が少ない言語、意識して努力しながら使っていた言語は、不安定になりやすいことがあるようです。
だから、海外で長く暮らしていて、英語で生活している人でも、老いや認知症によって、ふと日本語のほうが出やすくなることはありえます。
けれど、「認知症になると第2言語が先に消える」と決まっているわけではありません。
どの言語が残るかは、その人がいつその言語を覚えたのか、どれだけ使ってきたのか、どのくらい自然に使えるのか、そしてその言語がどんな感情や記憶と結びついているのかによって変わるのだと思います。
言葉は、フォルダのように保存されていない
言葉は、脳の中にきれいなフォルダ分けで保存されているわけではありません。
「日本語」フォルダと「英語」フォルダがあって、英語から順番に削除される。
そういう話ではなく、もっと生活に直結しているものだと思います。
毎朝聞いていた言葉。
子どもを叱るときに出る言葉。
痛いとき、怖いとき、助けてほしいときに出る言葉。
母親に呼ばれていた名前。
祈るときの言葉。
誰かに甘えるときの言葉。
そういう言葉は、単語帳で覚えた言葉とは違う場所に沈んでいる気がします。
実際、言葉と感情の結びつきは、母語のほうが強くなりやすいと言われています。
もちろん、これはすべての人に当てはまるわけではありません。
でも、幼いころから何度も聞いてきた言葉や、家族との記憶に結びついた言葉は、単なる情報伝達の道具ではありません。
その人の安心感や、痛みや、甘えや、恐怖や、愛情と深くつながっていることがあるのです。
生活の言葉は、最後の回線になるかもしれない
知人の不安は、決して大げさではありませんし、我が家も同じ状況です。
もし父か母のどちらかが、日本語か英語を失ってしまったら。
そのとき、夫婦の会話はどうなるのだろうと思うことがあります。
いつか、目の前にいる家族が自分の言葉をまったく理解できなくなったら。
「痛い」
「怖い」
「水がほしい」
「帰りたい」
「そばにいて」
「ありがとう」
「大好き」
そういう言葉が、届かないかもしれません。
それを想像すると、子どもに日本語を学んでほしいという親の願いは、教育熱心さというより、もっと切実なものに見えてきます。
ただ、ここで難しいのは、その不安を子どもにそのまま背負わせてしまうことです。
「将来ママがボケたら困るから、日本語を覚えなさい」
そう言われた子どもにとって、日本語は愛情の言葉ではなく、義務や罪悪感の言葉になってしまうかもしれません。
親の老後を支えるための科目になってしまうと、子どもは余計に日本語から遠ざかってしまう気がします。
継承語としての日本語は、学校のテストとは違います。
完璧な文法で話せなくてもいい。
漢字が書けなくてもいい。
敬語が変でもいい。
日本のニュースを読めなくてもいい。
まずは、親子の間で使える言葉が少しあるだけでいいのだと思います。
継承語は、未来を守るもの
親が子どもに残したいのは、日本語能力そのものではないのかもしれません。
子どもが日本語で返事をしなくても、親が日本語で話しかける。
日本語の歌を一緒に聞く。
料理の名前だけは日本語で呼ぶ。
家族の呼び名を日本語にする。
短い絵本を読む。
毎日ひとつだけ、決まった日本語のやりとりをする。
最初は、そのくらいでいいのではないでしょうか。
「日本語を継がせる」と言うと、大きな文化の話に聞こえます。
でも実際には、もっと小さくて、もっと個人的な話なのだと思います。
もちろん、未来のことはわかりません。
認知症になるとも限りません。
英語を失うとも限りません。
子どもが大人になってから、日本語に興味を持つかもしれません。
技術が進んで、言葉の壁は今よりずっと低くなっているかもしれません。
それでも、知人が不安になる気持ちはわかります。
言葉は、情報を伝える道具であると同時に、関係そのものだからです。
子どもに日本語を学ばせたいという願いの奥には、「自分のルーツを継がせたい」という思いだけではなく、老いていく自分と、成長していく子どもが、未来のどこかでまだ手を伸ばし合えるようにしたい。
そんな願いもあるのだと思います。
そのための細い糸として、日本語を残したい。
そう考えると、継承語としての日本語は、未来の親子を守るものなのかもしれません。






