日本語教育は、いつまで善意に頼り続けるのか

目次
1. 日本語教育は、いつまで善意に頼り続けるのか
2. 数字に表れない学習者も、世界中にいる
3. ボランティアが悪いのではない
4. 人材不足は、すでに公的にも課題になっている
5. 見えなくなっている講師の専門性
6. 日本語教育を、続けられる仕事にするために
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日本語教育は、いつまで善意に頼り続けるのか
日本語教育の現場は、日本国内の日本語学校やオンラインレッスンだけにあるわけではありません。
世界のさまざまな場所に、日本語を学びたい人がいます。
日本語を使って働きたい人がいます。
海外で暮らしながら、日本語や日本につながる学びを子どもたちに残したいと願う家庭があります。
私にとって、海外の日本語教育は遠い世界の話ではありません。
私の母は教員免許を持っていることもあり、アイルランドで暮らしていた頃、現地の補習校でサポートをしていたことがあります。
補習授業校は、海外で生活する子どもたちが、日本語で学び、日本の文化や学習習慣に触れ続けられる大切な場所です。海外で育つ子どもにとって、日本語は単なる教科ではありません。家族とのつながりや、自分の背景に触れるための言葉でもあります。
今も、海外の補習校で働いている友人がいます。
ただ、そこから耳にするのは、先生が足りないという現実です。
もちろん、日本語教育の環境は国や地域によって大きく違います。需要も担い手も集まりやすい都市がある一方で、日本語を教えられる人、日本語を次の世代につなげられる人を確保することが難しい地域もあります。
この問題は、身近な経験だけで語れるものではありません。
けれど、数字を見ても、日本語教育が世界規模で必要とされていることは明らかです。
数字に表れない学習者も、世界中にいる
この問題は、身近な経験だけで語れるものではありません。
ただ、今の日本語教育の広がりは、公的な調査に表れる範囲だけでは捉えきれないとも感じています。
海外の教育機関で日本語を学ぶ人もいます。
補習授業校で日本語を学ぶ子どもたちもいます。
オンラインプラットフォームで日本語講師を探す人もいます。
YouTubeやSNS、アプリを使って独学している人もいます。
日本に来る前から、働くために日本語を学び始めている人もいます。
つまり、日本語を必要としている人は、学校や教育機関の中だけにいるわけではありません。
むしろ今は、教室の外にも、日本語を学ぶ人が広がっている時代です。
そして、日本語教育学会でも、「日本語教育グローバル人材奨励プログラム」として、日本国内の若手研究者・実践者が海外の日本語教育現場で活動するための支援を行っています。
こうした動きからも、日本語教育が、国内の教室だけで完結する分野ではないことがわかります。
海外の学校、大学、地域の教室、補習授業校、家庭、オンライン、そして日本で暮らす外国人の生活。
日本語教育は、すでにさまざまな場所とつながっています。
だからこそ、私は考えます。
これほど広がっている教育を、いつまで「やってくれる人の善意」に頼り続けるのでしょうか。
ボランティアが悪いのではない
誤解のないように言えば、私はボランティア活動を否定したいわけではありません。
誰かのために自分の時間を使うこと。
子どもたちに日本語を残したいと願うこと。
日本語で困っている人を支えたいと思うこと。
それは、とても尊いことです。
実際に、国内外の日本語教育の現場は、使命感を持って関わってきた多くの方々に支えられてきました。善意があったからこそ、救われた学習者や家庭がいることも事実だと思います。
でも、善意が尊いことと、教育の仕組みを善意頼みにすることは、まったく別の話です。
教育は、人の人生に関わる仕事です。
海外で育つ子どもにとって、日本語は家族やルーツとつながる言葉になることがあります。
日本で働く外国人にとっては、報告や相談をし、職場で信頼を築くための言葉になります。
地域で暮らす外国人にとっては、病院で症状を説明し、役所の手続きを行い、災害時に情報を得るための言葉になります。
それほど重要な教育が、「できる人が、できる範囲で、無償に近い形で支えるもの」であり続けてよいのでしょうか。
人材不足は、すでに公的にも課題になっている
この問題は、現場の感情論だけではありません。
文化庁が取りまとめた「地域における日本語教育の在り方について」では、外国人の増加に伴い、地域での学習ニーズが多様化・増加している一方で、専門性を有する日本語教師の不足や、日本語教育支援の地域差が課題として指摘されています。
また、文化庁の地域日本語教育に関する資料でも、日本語学習支援者であるボランティアの役割は大きい一方、継続的な活動や専門的知識を身につける機会の不足が課題として示されています。
つまり、現場ではすでに、「支える人が足りない」「専門性を持つ人材が足りない」という問題がはっきり見えているのです。
さらに、2019年に公布・施行された「日本語教育の推進に関する法律」は、日本語教育の推進について、国や地方公共団体、事業主の責務を定めています。
日本語教育は、もう一部の熱心な人が善意で背負う活動ではありません。
共生社会を支えるために、社会全体で整備すべき教育です。
見えなくなっている講師の専門性
日本語を教える仕事は、「日本語が話せる人ならできる仕事」ではありません。
学習者の現在地を見極める。
生活や就労、進学など、目的に合わせて内容を組み立てる。
理解できない理由を探る。
教材を選び、作り、修正する。
文化的背景や心理的な不安にも配慮する。
その人が日本語を使って社会とつながれるよう支える。
そこには、専門性があります。
にもかかわらず、現場では授業を行う時間だけが「仕事」として見られ、準備、教材作成、相談対応、連携、振り返りの時間が見えなくなってしまうことが多々あります。
「子どものためだから」
「外国人支援だから」
「好きでやっているから」
「誰かがやらなければならないから」
そうした言葉によって、本来評価されるべき時間や技術が、無償の努力として処理されてしまう。
私は、そこに危うさを感じます。
善意がある人ほど、無理をします。
使命感がある人ほど、簡単には手を離せません。
けれど、思いの強い人が疲れ切って離れていく仕組みでは、学習者にとっても持続可能ではありません。
日本語教育を、続けられる仕事にするために
必要なのは、ボランティアを排除することではありません。
ボランティアで関わりたい人が、無理なく関われること。
専門性と時間に見合う評価があること。
教育機関や行政が、個人の犠牲ではなく仕組みとして支えること。
講師が教え続けながら、生活も成り立たせられること。
そうした環境を作ることです。
日本語教育は、世界のさまざまな場所で必要とされています。
海外で日本語を学ぶ人にも、海外で育つ子どもたちにも、日本で暮らし働く外国人にも、必要な教育です。
必要とされているのに、担う人が続けられない。
重要だと言われているのに、専門性が十分に評価されない。
社会に不可欠なのに、最後は個人の善意に任される。
それでは、あまりにも脆いと思います。
私は、日本語教育に関わる人の思いを大切にしたいです。
だからこそ、その思いを搾取するような仕組みにはしたくありません。
日本語を教える人が、誇りを持って、適切に評価され、長く続けられること。
その先にこそ、学習者や子どもたちが安心して学び続けられる未来があります。
日本語教育は、いつまで善意に頼り続けるのか。
この問いを、現場で頑張っている人だけの悩みにしてはいけないと思います。






