世界の果てで、彼の言葉はなぜ届くのか

目次
1. 世界の果てで、彼の言葉はなぜ届くのか
2. 語学が完璧ではなくても、言葉は届く
3. 「伝えたい気持ち」だけでは届かないことがある
4. Shotaさんの言葉が届く理由
5. 子どもは、先に相手を受け入れている
6. レッスンでも、同じことが起きている
7. 言葉を学ぶことは、人に近づくことでもある
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世界の果てで、彼の言葉はなぜ届くのか
こんにちは。Enuncia代表のハミルトン葉奈です。
今日は、私がいちばん好きなYouTuberの話をさせてください。
その人は、Bappa Shota。
バックパッカーの「バッパー」と、ご自身の名前であるShotaを組み合わせたチャンネル名のとおり、19歳で日本を出て以来、世界を旅しながら、その土地で出会った人々や現実を発信し続けている方です。Youtubeチャンネル登録者は140万以上なので、ご存知の方も多いかもしれません。
世界を旅するYouTuberは、ほかにもたくさんいます。
それでも私が彼をいちばん好きなのには、はっきりした理由があります。
彼の動画は、私には単なる旅動画には見えません。
映像の美しさ、構成の緻密さ、編集の完成度。もちろん、そうした技術的な魅力もあります。
でも、それ以上に惹かれるのは、取材対象に向けられるまなざしです。
自分の知らなかった国、自分の知らなかった地域、自分の知らなかった民族や暮らし。
そうしたものを、彼の動画を通して知ることができる。
しかも、表面的な「珍しさ」としてではなく、そこで生きている人の息づかいとして感じられる。
私はその体験がとても好きなのです。
昨年、ウイグル自治区の動画が公開されたあと、しばらく更新が途絶え、心配の声が広がったことがありました。だからこそ、また旅を続けておられる様子を見たときは、本当に嬉しく思いました。
語学が完璧ではなくても、言葉は届く
ここで、少し意外に思われるかもしれないことを書きます。
私は、彼の語学力が高いから旅先でたくさんの人とコミュニケーションを取れているのだとは思いません。
動画内で英語でお話しされる場面も多いですが、正直、文法も、発音も、間違いはたくさんある(Shotaさんごめんなさい)。
でもこれは決して批判ではありません。
なぜなら、それでも彼の言葉はちゃんと届いているから。
ウイグル自治区で現地の人と話す。
ジャングルの奥地に入っていく。
タリバンの人たちと過ごしてみる。
どの動画を見ても、言葉の壁が完全に消えているわけではないはずなのに、その壁を越えて相手との距離が縮まっていくのが伝わってきます。
言語的に完璧でなくても、相手の心が開いていく様子が、画面越しに見えるのです。
もちろん、通訳の方が入っている場面もあります。
それでもShotaさんは、いつも自分の言葉でコミュニケーションを取ろうとしている。
そして実際に、コミュニケーションがしっかり取れているように見える。
それはなぜなのだろうと、私はずっと考えていました。
「伝えたい気持ち」だけでは届かないことがある
以前、私は「伝えたい気持ちさえあれば、コミュニケーションは成立する」という趣旨の記事を書いたことがあります。
3歳の姪が、アイルランドで出会った子どもたちと、共通の言語がないまま一日中遊んでいた。
その姿を見て、言葉が通じなくても「伝えたい」という意志があれば、気持ちは届くのだと感じたのです。
でも、Shotaさんの動画を見続けるうちに、それだけではないと気づきました。
「伝えたい気持ち」は、たしかに必要です。
けれど、それだけではたどり着けない場所がある。
言葉を発する側に、もうひとつ別のものが必要なのではないか。
そう考えるようになりました。
Shotaさんの言葉が届く理由
彼の動画を見ていると、一貫して感じることがあります。
Shotaさんは、「変わった人たちを見に行っている」のではない。
「その人たちの世界を理解したくて行っている」のだ、ということです。
その違いは、映像からはっきり伝わってきます。
カメラを向けるときの距離感。質問の仕方。相手が話しているときの表情。笑い方。どれを見ても、「この人のことを知りたい」という姿勢がある。
先入観がない。
格付けがない。
自分の常識をものさしにして、相手を測ろうとしていない。
また、何かを語るときにも、「僕が聞いた話では〜」「聞いた話によると〜」「〜らしい」「〜みたい」といった、断定を避ける表現が多いように感じます。
きっと、現地に行く前にものすごく時間をかけてリサーチをし、たくさん勉強されているはずだと思います。けれど、その前提知識を振りかざすのではなく、最後は目の前の相手に向き合って、「あなたのことが知りたい」という姿勢を保っている。
私はそれを、リスペクトと呼びたいです。
人は、自分がリスペクトされているかどうかを、言葉が通じなくても感じ取るものですよね。
それは、ある意味ではとても感覚的なものかもしれません。
相手が自分を「面白い見世物」として見ているのか、それとも「同じ人間」として見ているのか。
だから、彼の言葉は届く。
文法が正確だからではなく、発音が美しいからでもなく、まず先にリスペクトがあるから。
私はそう感じます。
子どもは、先に相手を受け入れている
ここで、以前書いた姪の話に戻りたいと思います。
3歳の姪が、アイルランドで出会った子どもたちと、言葉なしで遊んでいたこと。
あのとき働いていたのも、今思えば、同じ種類のものだったのかもしれません。
子どもには先入観がありません。
「あの国の人だから」「こういう文化だから」という色眼鏡を、まだ持っていない。
ただ、目の前の子が面白そうで、一緒に遊びたくて、おもちゃを見せた。
そこにあったのは、まっすぐな関心と、相手をそのまま受け取ろうとする感覚だったのではないでしょうか。
子どもは、それを無意識にできます。
Shotaさんは、それを大人になっても持ち続けている。
意識的なのか、無意識なのかは分かりません。でも、世界中を旅しながら、それを失っていない。
私はそこに、彼のすごさを感じます。
「伝えたい気持ち」は必要条件。
そして「リスペクト」は、相手の心に届くための、もうひとつ欠かせない条件なのだと思います。
レッスンでも、同じことが起きている
これは、日本語を教えることにも、そのまま重なる話だと私は思います。
私たちは、生徒を通して、自分の知らない世界に触れることができます。
Shotaさんのように外国を旅することはできなくても、授業の中で、さまざまな国の文化や価値観、その人が歩いてきた人生に出会うことができる。
よく考えてみると、それはとてもぜいたくで、幸せなことです。
だからこそ、レッスンの場にもリスペクトが必要なのだと思います。
学習者の文化や背景へのリスペクトがない授業は、どれだけ文法説明が正確でも、きっと届きません。
教師が「正しいことを教えてあげている」という姿勢で立っているとき、生徒の心は閉じてしまいます。
反対に、「あなたのことを知りたい」「あなたの言葉を育てたい」という敬意がある教師のもとでは、多少説明が不完全でも、学習者が前のめりになる瞬間があると思うんです。
教える技術はもちろん大切です。
でも、その技術が本当に相手に届くかどうかは、教師の姿勢に大きく左右されるのではないかと思います。
言葉を学ぶことは、人に近づくことでもある
そして同じように、学習者の側にも、日本語を学ぶその先にある文化や人々への敬意があってほしい、と私は思います。
最近、日本国内で排外主義的な動きが顕在化し始めているのも、きっと一部の外国人が、日本や日本の文化に対して尊敬を欠く行動を取っているからでしょう。
言葉を学ぶことは、本来、その言葉が育った土地や人に近づこうとすることでもあるはずです。
考える力、伝える力、説明する力。
もちろんそれらは大切です。
でもその前に、相手のことを知りたいと思っているか。
相手の背景や価値観に、敬意を持って向き合えているか。
言葉が本当に届くかどうかは、案外そこから始まるのかもしれません。
Shotaさんの動画をまだ見たことがない方は、ぜひ一度見てみてください。
きっと、コミュニケーションというものの見方が、少し変わると思います。






