「あなたにとって、ことばとは何ですか」

目次
1. 「あなたにとって、ことばとは何ですか」
2. ことばの種類に、正確な数はない
3. 世界はことばで満ちている
4. 日本語教育との接点
5. ことばを教えながら、ことばを問い直す
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世界はことばで満ちている
こんにちは。Enuncia代表のハミルトン葉奈です。
先日、NHKのETV特集「世界はことばで満ちている」を見ました。
ろうの写真家・齋藤陽道さんに密着したドキュメンタリーです。
今回はその感想をみなさんに共有したいと思います。
ことばの種類に、正確な数はない
世界には何種類の言語があるか、ご存知でしょうか。
論者によって3,000から8,000まで幅があり、最もよく引用される数字は6,000前後です。
しかしこれほど開きがあるのには理由があります。
そもそも「言語」と「方言」を区別する客観的な基準が、言語学的に存在しないのです。
たとえば日本列島の中だけをとっても、琉球語(沖縄のことば)を日本語の方言と見なすか、独立した言語と見なすかで意見が分かれます。
さらに琉球語も一枚岩ではなく、沖縄語・宮古語・八重山語など複数の異なることばとして数えるべきだという立場もある。つまり、日本語という「ひとつの言語」の内側でも、すでに境界線は曖昧なのです。
もう一つ例があります。
1990年には「セルボクロアチア語」というひとつの言語だったものが、旧ユーゴスラビアの政治的分裂によって、現在ではセルビア語・クロアチア語・ボスニア語の三言語として数えられています。
ことばそのものは変わっていない。
変わったのは政治的な境界線です。
言語の数え方は、ことばの実態ではなく、誰がその共同体を「ひとつ」とみなすかという、政治的・文化的な判断によって決まる側面があるというのがわかりますね。
また、現在も消滅しつつある言語がある一方で、新たに「発見」され独立した言語として認定されるものも存在します。
言語の数は固定された事実ではなく、現在進行形で変化し続けているものでもあります。
そのような、数え切れない、数えること自体が一筋縄ではいかないことばの海の中のひとつが、日本語です。
そしてその日本語を、私たちは扱っています。
世界はことばで満ちている
齋藤陽道さんはろう者であり、手話を第一言語として育ったのだそう。
同じくろう者である奥様と、お子さんたちと暮らしています。
番組の中で印象的だったのは、聴こえない両親のもとで育った子どもたちが、成長するにつれて音声言語の世界へと自然に引き寄せられていく様子です。
手話を中心に築かれた家庭の中で、子どもたちは外の世界と接するうちに、音声という別の「ことば」を身につけていく。
それは成長の自然な過程でありながら、親にとっては複雑な感情を伴うものでもある。
どちらが正しいとか、どちらが豊かとかいう話ではなく、ことばというものが単なる情報伝達の手段を超えて、アイデンティティや帰属感と深く結びついているという事実を、静かに示しているように私は感じました。
番組の中で、ディレクターが齋藤さんにこう問いかける場面があります。
「齋藤さんにとって、ことばとは何ですか?」
齋藤さんの答えはこうでした。
「世界のすべてがことばだ。なぜそんな質問をするのか。なぜ世界がことばで満ちているということがわからないのか。」
齋藤さんにとって、ことばとは音声で発されるもの、文字として記されるものだけではない。
手話という身体のことば、写真というまなざしのことば、表情、間、沈黙——それらすべてが等しく「ことば」として存在している。
そのような世界に生きている人にとって、「ことばとは何か」という問いはそもそも奇妙な問いだったのでしょう。
問いを立てる必要がないほど、ことばは自明のものとして、世界のあらゆる場所にある、ということを齋藤さんは伝えようとしているように思いました。
この問いの裏には、きっとディレクターの無意識の前提があったと思います。
「ことばとは音声言語であり、それを持たない人がいる」という前提。
あるいは「一般的に使われる音声言語とは別に、齋藤さんは手話という異なるコミュニケーション手段を用いる人である」という前提。
どちらにせよ、その出発点には「音声言語が標準であり、手話はその外側にある」という、おそらく本人も気づいていない序列が潜んでいるのではないかと思います。
そしてその序列から出発しているからこそ、「あなたにとってことばとは何か」という問いが生まれる。
ここで改めて気づかされるのは、私たちが「ことば」と呼んでいるものの狭さです。
音声言語を中心に置き、それを基準として世界を測ろうとする発想は、日本語教育の現場にも、静かに存在しているかもしれません。
「正しい日本語」「伝わる日本語」を教えるとき、私たちは何を「ことば」として扱い、何をその外側に置いているのでしょうか。
日本語教育との接点
この場面を見ながら、私は自分自身の仕事について考えていました。
私が扱うのは就労・ビジネスの日本語です。
正確に伝わる日本語、職場で評価される日本語、面接を通過できる日本語。
それは確かに、学習者のキャリアに直結する実践的な価値を持っています。
しかしその「正しさ」や「適切さ」を追求するとき、私は知らず知らずのうちに、音声言語としての日本語を唯一の基準として、それ以外を「ことばの外側」に置いていないか。
そしてさらに言えば、日本語そのものを純粋な道具として扱っていないか。
その問いが、番組を見ながら浮かんできました。
学習者にとって日本語は、多くの場合、第二言語あるいはそれ以上の言語です。
母語とは別に習得し、日本社会の中で生きるために使うことば。
その過程には、母語では自然に表現できることが日本語ではうまく言えない、という経験が必ず伴います。
それは単なる語彙や文法の問題ではなく、「自分が何者であるか」を別のコードで再構築するという、非常に根本的な作業です。
母語で培ってきた表現の文脈、非言語で伝えてきたこと、沈黙の中に込めてきたことは、日本語という枠組みの中では、往々にして行き場を失います。
道具としての日本語を教えることに、明確な意義があることは疑いません。
ただ、その道具を磨くことに集中するあまり、学習者がもともと持っている「伝えたいこと」の中身や、その人固有の表現の感覚に、私は十分に向き合えているだろうか、と思ったのです。
世界は、分類しきれないことばで満ちています。
音声言語だけでなく、表情、間、身振り、手話、あるいは音楽やアートという形で自分を伝える人もいる。
私たちはその広大なことばの世界の中で、日本語という一つの体系を扱っています。
でも、「日本語」はすべての基準なのではなく、さまざまなことばで織りなされる世界のひとつでしかない。
それを忘れずに、その中で日本語を学ぼうとしている一人ひとりのことを、もう少し丁寧に見ていたいと思いました。
ことばを教えながら、ことばを問い直す
「あなたにとってことばとは何か」という問いに、みなさんなら何と答えますか。
私はまだ答えが見つかっていません。
ただ、自分の日々のレッスンの中にどんな「ことば」が含まれていて、どんな「ことば」が含まれていないのかを、時折立ち止まって問い直したいと思っています。






